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失恋と麻布と東カレ

by ほしゆき

32歳、商社マン、港区の高級マンション住み、年収4桁。ひと目見た時の感想は「東カレ」。

いや、アプリでやり取りしてる時から心の中でずっとそう呼んでた。

「食べられないものとかある?」

「辛いもの以外だったら、なんでも食べられます」

「了解」

3月の肌寒い平日の夜。

会社から近いという理由で、待ち合わせ場所は麻布十番だった。理由というか、そういう建前だったんだろう。会社との距離は渋谷のほうが近かったけど、彼が選んだのはこの駅だった。

体のラインが程よく目立つタイトなワンピースに身を包んで、“この辺でよくディナーしてます”ってこなれた女子になりすました。

麻布十番のことなんて、私はほとんど知らない。この界隈で夜遊びするOLたちとはきっと嗜好が合わないし、今日みたいに港区男子と“適当に遊んだこと”だってない。

高そうなスーツに身を包んで優しそうに笑った彼は、「了解」と言ったあとすぐに目線と軽い頷きでスタッフを呼ぶ。メニューを見ても私にはピンとこない字面だったから、勝手にオーダーをしてくれて助かる。

マッチングアプリに登録したのは、上司である彼氏に振られたのが理由。

年収が4桁だとか、麻布十番の美味しいお肉とか、

目の前の男が指輪を隠した既婚者だとか

そんなことは正直どうでもよかった。

「なんでアプリとか始めたの?かわいいし、登録しなくてもモテるでしょ?」

めったに食べられない高級なお肉に感動しながら、赤ワインを何杯か飲んで、お互いほろ酔いになってきた頃、ふと彼はアプリの話を切り出した。

そういうセリフ、誰にでも言うんだろうな。

「…彼氏に振られて、むしゃくしゃしてたんです」

名前だって偽ってたし、職業も住んでる場所も、本当のことなんてひとつとして教えていない。

心を開くつもりはなかったけど、今夜が終われば二度と会わないし、と思えば理由くらいは明かす気になった。グイッと赤ワインを喉に流し込む。

「なるほど。社内恋愛?」

「え、」

「あたりだ」

イタズラに口角を上げると、彼もグラスの中にあるワインを空にした。

外は雨、明日は土曜日、そろそろ時計は0時を指す。LINEで会う日を決めている時から、美味しいご飯を食べて駅で解散する気なんて更々なかった私たちは、そのままホテルへ向かった。近くにあるはずの彼の家じゃなかった理由は、聞かなくてもわかる。

好きでもない、興味もない東カレ男に望んで抱かれる日が来るなんて、3ヶ月前は想像もできなかった。

付き合っていることを誰にも悟られないように繕いながら、仕事終わりに大好きな彼の家へと向かう。

金曜日の夜は、そういう幸せな約束があったのだから。

女子アナみたいな格好をして、好きでもない男に会話を合わせて、港区のホテルで一夜限りの関係を持つなんて、控えめに言っても最低だ。

触れられるたびに押し寄せてくる悲しさと、「逃げ出したい」という本音に心を支配されそうになる。

「…やめとく?」

肌を撫でる手を止めて、耳元で呟かれた声にハッとする。

「…やめない」

素直で、純粋な私のことが好きだと、彼はよく言った。

付き合う前から、一生懸命仕事をする私を上司としてよく褒めて、よく見守ってくれていた。

好きだった。

ずっとずっと好きだった、結婚したかった。

結婚したいと思って欲しかった。

だけど無理だったから、振られちゃったから

もう「彼の好きな素直で純粋な私」なんて要らない。消してしまいたい。消えてしまいたい。

好きでもない人に初めて抱かれてみた夜は、

好きな人のことばかり思い出した。

事情の後、背を向けながら静かに泣いていた私の頭を彼は優しく撫でて、後ろからぎゅっと抱きしめる。

「…子ども扱いしないで」

「してないよ?」

「してるでしょ」

「抱きしめないほうがよかった?」

少し言葉に詰まった後小さく首を振ると、満足そうにふっと笑われた。

アプリで出会った、本当の名前も教えてない人。そんな人の温もりにすがってしまうくらい、私はボロボロだったのだ。

「…一番好きな人と、結婚したんですか」

「え?」

「結婚してるんでしょ、本当は」

「……意外と鋭いね」

意外と、じゃないよ。

最初から気づいてた。でも何も気づいていないように演じたの。

失恋して、かわいそうな5つ年下の女を麻布十番のホテルで慰めているあたり

奥さんにも平気な顔して嘘をついているんだろう。

「…どうかな、“一番好きになった人”とは言えないかも」

「でも優しくて気の利く女性?」

「そうだね、よくできた奥さんだと思うよ」

「…ほんと、最低ですね」

「抱きしめないほうがよかった?」

「…ううん」

なんの意味も持たない出会いだった。

なんの意味も持たないセックスだった。

不倫なんて最低、そう言いながら欲しがった私も。

振られた腹いせに、気がすむまでめちゃくちゃ遊びまくってやろうと思っていたけれど、今夜限りでそれは終わりにすることにした。

チェックアウトをして、「また会える?」と聞いてきた彼に「まさか」と笑って背を向ける。

土曜日のお昼には、港区にも爽やかでやさしい春風が吹いていた。…この匂い、好きだな。

麻布十番の駅に向かって歩きながら

もう一度だけ静かに泣いた。

この街にある何もかも私には不釣り合いで、

東カレを買う日は当分来そうにないけれど

お肉が美味しかったから、ほんの少しだけ救われた。

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